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愛の地震 その3

 2005-03-20(日)
死亡者1名出ましたな。
残念だ。
 
負傷者も増えている。
 
テレビでは、ワンピースやってる。
マラッカ海峡で海賊に襲撃された事件は、いまいずこ・・・
 

 

愛の地震 その2

 2005-03-20(日)
まず、被災地にお見舞い申し上げます。
 
 
以下、我が家のドキュメント。
 
震度4と震度6弱の差は大きい。
とても大きい。
福岡は震度6弱だったが、こちらは震度4だった。
 
昨夜も本を読んでいたので、まだ布団に入っていた。
不思議なことに目は覚めていて、天井を見ていた。
 
誰かに揺さぶられるような、そんな揺れが一番最初だった。
すぐに地震とわかった。
姪っ子中二は、起きていて遅めの食事をしていたらしく、
「地震!」と叫んだ。
「ああ、トラックが近くを通っているみたいだな」とだけ会話。
 
揺れが終わらない。
軽くというか、段々と揺れが強くなってきているようだ。
遠くの部屋から祖母が姪っ子小二に何か話している声が聞こえた。
今日は日曜日だが、義兄も姉も仕事でいない。
祖父は風邪のまま、というのを思い出した。
ほんの数秒の間のこと。
 
揺れはまだ続いている。
姪っ子中二が「まだ揺れてる」と怯えた声を出す。
布団から跳ね起きると、姪っ子中二の方に向かった。
耳を澄ます。
建物が揺れる、地震時独特の嫌な音だけが聞こえる。
姪っ子中二が手を伸ばしてきたので、しっかりと握る。
「大丈夫だ」と声もかける。
 
物が倒れてきた場合を考え、空間のある方へ移動する。
その間も、まだ揺れ続けている。
「長く揺れているけど、強さはたいしたことはない。直下型でもない」
と姪っ子中二に言う。
マエストロ軍曹が廊下側からひょっこり顔を出す。
「早くこっちに来い!」
左手に姪っ子中二、右手にマエストロ軍曹を抱えるようにして仁王立ち。
心の中で、これ以上揺れが強くならないことを祈る。
 
まだ揺れている。
でも、この時は、震源地は、この辺りではないなと感じていた。
震源地付近は、福岡寄りの北か鹿児島よりの南か、どちら側と漠然と考え、母は孫である姪っ子小二と一緒なんで大丈夫だろうと思っていた。
 
揺れが収まらないと、どうにもできないな、と。
 
怖がってはいたが、姪っ子中二もマエストロ軍曹も泣き叫ぶようなことはなく、しっかりと手を握っていた。
姪っ子中二はマエストロ軍曹の手も、しっかり握っていた。
 
テレビ台は大きい奴である。その上には神棚もあったりする。
テレビ台自体の上にも、色々と小物が置いてあり、地震一発で倒れちゃうなと笑いながらよく話していた。
 
何一つ、倒れなかった。
電灯が、揺れが収まった後も、左右前後に揺れていただけ。
それだけが、地震があったことを示す残像である。
 
揺れは収まった。
 
姪っ子中二にマエストロ軍曹をまかせ、姪っ子小二を確認する。
停電もしていなかったので、NHKを付けろと姪っ子中二に指示する。
 
祖母と姪っ子小二が現れた。
ちょうど隣のおばさんが、トマトを持ってきてくれていた途中で揺れたそうで、母である姪っ子小二の祖母は、少し興奮した感じで話していた。
 
つうか、隣のおばさん(もうおばあちゃんだけど)は、そのまま帰ったのか?揺れている最中に。さすが!きみこおばちゃん!
 
姪っ子小二は、風邪で休んでいた時にたまった、大量の宿題を前に朝から机と格闘中であった。地震がきても、宿題が全然減らないのに苦戦していた様子。
 
これが、震度4である。
 
20秒くらいは揺れが続いたが、ガラスが割れるでもなく、停電するでもなく、断水するでもなく、ライフラインは無事で、ちょっと強い揺れだったなぁと回顧できる震度である。
 
マエストロ軍曹は、姪っ子中二に抱きつくような格好で、軽く怯えていたみたいだが、それを姉の姪っ子中二に指摘されると「そんなことない」と強がる余裕もある。
 
NHKでは、さっそく地震速報。ピンポンパンポンという、緊急放送の合図とともに。この合図は、精神的に好きではない。訓練ではない、本当の緊急放送の合図音だから・・・
 
NHK地震速報をみんなで見た。
一番最初の速報は、直後ということもあり、情報が交錯して、おもしろいといえば大変おもしろい放送である。
「現場から電話が繋がっています、もしもし」とアナウンサー。
横からディレクターの声で「ない、ない」と聞こえる。
「切れたみたいです・・・本日午前10時55分頃強い地震が・・・」と何事もなかったように続けるアナウンサー。
 
テレビ画面の地震速報を見て、震源地が福岡県と知る。
福岡か。
すぐに携帯を取り出し電話をかける。
繋がらない。
携帯メールもダメである。
これだけ普及してしまった携帯電話は、緊急時には使えない。
阪神大震災時とは時代が違ってしまっている。
 
携帯は、緊急時には使えないのだ。
 
キャリアの規制もあるだろう。
NTTの固定電話は、どうだろう。
地震直後からNTTの固定電話は鳴り放しだった。
 
姉や義兄からである。
関西の親戚からである。
震源地から離れていたということもあるが、NTT固定電話は地震直後から問題なく使えた。
 
停電していなかったので、立ち上げっぱなしのパソコンに向かう。
気持ちいいくらいにネットに繋がる。
色々な地震情報を見て回る。
災害情報サイトや気象庁のサイトなどお気に入りに登録してあるのだ。
 
ついでに2ちゃんねるの地震速報板も見る。
 
地震キター━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
 
の連発である・・・ 
まだ、余裕があるのだ。
何もわかっていない状況なのだ。
 
必要な人にメールを送る。
 
余震が心配だったが、我が家の地方では、その後体感できる余震はなかった。ニュースでは、アナウンサーが「余震に注意してください」と言っている。
「いま、揺れています。スタジオも揺れています」とリアルな余震実況があったりもしたが、こちらでは余震は感じなかった。
 
テレビ画面からは、続々と震源地に近いとこの映像が流れる。
新潟地震ほどではないと実感した。
津波注意報が出たので、島は心配だったが、震度以上に被害は少ないだろうと、感じた。
これは甘いかもしれないが、地震長後は、そう感じたのだ。
 
福岡市内は大丈夫だ。と納得する。
鉄筋のマンションなら大丈夫だと。
ガラスが散乱した映像が放映されていたが、あれだけの都市部のこと、これだけ直近に地震があって対策もされているので、甚大な被災があれば、即報道されるはずだ、と。
自衛隊への出動要請も早い段階であったし。
その後の報道でも、そのときの直感があたったと認識できた。
 
とにかくテレビは地震だらけである。
それも、地震があったという情報以外にこれといった情報がないので、同じ内容の繰り返し。リピート。ループである。
それでも見てしまう。
ラジオも付けていた。いつ停電になるかわからないからだ。
 
仏壇の横にある緊急グッズ入れも身近に置いた。
飲料水も断水を考慮し、確保した。
ペットボトルのお茶など買いだめしているのである。それを集めた。
プロパンガスも大丈夫だった。地方なので都市ガスでなく、プロパンガスである。
プロパンガスのメーターは地震探知安全装置が装着されていて、規定の震度を感じるとガスの供給をストップする仕様である。
 
トイレに姪っ子甥っ子達を行かせた。
特に姪っ子小二は体が不自由なので一番最初に行かせた。
最悪、うちには広い庭がある。簡易トイレなど幾らでも作ることが出来るので、この件はなにも心配していなかった。
先日、姪っ子中二とトイレットペーパーを32ロール買ったばかりでもあるし。
 
時間は、あっという間に過ぎる。
もう昼前である。
ひととおり安全確認もし、余裕を持ってテレビを見入っていた。
腹が減っては戦は出来ぬ、の格言とおり、昼になると腹が減った。
姪っ子中二に作らせる。材料と簡単なレシピを教え、あとはお前がやれと言い放った。
「おれは、右手を怪我してるじゃん」と。
「私は早く良くなって欲しい、その親指」と姪っ子中二。
結局、最後の最後で仕上げを担当・・・
 
震度4。
これは助かった。
これが震度6弱、震度5でも状況が随分と変わったはずである。
家の物が倒れるだけで、姪っ子小二には致命傷になる。
震度4でよかった。
これは姪っ子小二の祖父である父が、姪っ子小二に言った言葉である。
 
夕方になり、被害状況が段々と判明してきている。
死者はいないようだ。
それでも負傷者100名超えると報道されている。
地震の被災状況は、だんだんと増えていく嫌な広がり方をする。
予断は禁物だが、これで済んだと思った方がいいのだろう。
 
震度4で助かった。
これが本音である。
 
マエストロ軍曹。
地震直前、おきゃくさん(隣のおばちゃん)が来たので、二階から様子を見ようと階段まで出てきたところで地震に遭遇。揺れがひどくなかったので、階段の手すりに掴まりながら下りてきたそうだ。
これも震度4のおかげ。
まかり間違えば、階段から放り出されていたと思うとぞっとした。
 
体の悪い姪っ子小二がいるため、至る所に手すりがある。
階段、トイレ、玄関等・・・
マエストロ軍曹にも役にたったみたいです。
 
長々となりましたが、とりあえず以上。
 
 
 

愛の地震

 2005-03-20(日)
めっちゃ揺れた━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!

11:23現在、全員無事。

取り急ぎ、以上。
携帯も携帯メールも不通だ。


愛の幕末維新青春群像

 2005-03-05(土)
都心に配備されている精強部隊は第一師団。
隷下部隊には、屈強な習志野の第一空挺団や対戦車ヘリ部隊などがある。
 
第一師団_06


 
 
 
 
 
 
 
第一師団創立記念日での一こま。
 
海上自衛隊の編成は詳しいが、陸上自衛隊もそこそこ詳しい。
地元には西部方面総監部がある。
総監部の前の道路は、通称自衛隊通りと呼ばれていて、桜がズラリと植えてある。
花見の名所でもある。
 
そこは横広い道路である。
戦車が通れるようになっている。飛行機が着陸できるようになっている。
とまことしやかに子供の頃から聞かされていた。
 
戦中、陸軍航空隊用飛行場があった場所である。
おやじは子供の頃よく遊びにいっていたらしい。敗戦後も、しばらく、近所に戦闘機が隠してあったそうだ。
 
これとは別に配備されている師団もあり、地元には2つの部隊が存在している。
 
敗戦するまでは、最強と謳われた帝国陸軍第八師団があった。
もっと時代を遡れば、名城銀杏城を司令部とする鎮台があり、西南戦争時の司令長官は、土佐の谷干城である。
 
坂本竜馬が暗殺されたとき、数日生きながらえた中岡慎太郎の「新選組かもしれん」という説に激昂して新選組にかちこみをかけた猛者である。
若い頃の写真が残っているが、そりゃ、もう気合い入りまくりの面構えである。
 
谷干城の青春時代




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この写真を初めて見たのは15歳の時だったが、えらく気合いの入った顔しとるなぁと思った。
 
西南戦争時、鎮台には、参謀副長として児玉源太郎がいた。
あの、児玉源太郎である。
 
軍中枢は、児玉がいるなら、あの城が落ちることはない。と言ってたそうだが、事実そうなった。児玉は籠城して司令長官の谷を補佐し、西郷軍の猛攻を防いだ。
 
結局、城は焼失してしまうのだが、これは作戦という話だ。谷干城が命令したということだが、児玉が絵を描いたのではなかろうか。
 
後日、児玉源太郎は、この経験を生かす。
日露戦争においてである。
児玉は第三軍司令長官の乃木希典と同じ長州人である。
 
あ、昨日めちゃイケに長州小力出ていたなぁ。
 
児玉源太郎のイメージは丹波哲郎である。
映画『二百三高地』での児玉源太郎役は、もう完璧である。
実際は小さい人だったらしいが、大霊界の宣伝マン丹波哲郎御大が演じると、もう迫力満点!
 
「キサマぁぁ、ワシに喧嘩うっちょるかぁ」の名セリフは今でも鮮烈に残っている。
映画館で観たが、隣で観ていた年配のご夫婦が忘れられない。
今はもう亡くなられているだろうが、姿勢を正し、スクリーンを真っ直ぐに見つめる、あの視線は忘れられない。
 
高校生の時に全国植樹祭で地元を訪問された昭和天皇の見学に来ていた、正装した年配夫婦と同じくらい忘れられない。
たしか、男性の方は胸に勲章を付けていたように思う。手には、配布されたと思われる小さな日の丸を持っていた。
 
見ず知らずの方だったが、ある時期の青春の思い出を垣間見たようで、当時青春まっただ中であった自分とシンクロさせたような気がする。
図書館にチャリンコで行く途中だったということまで覚えている。
そして、昭和天皇を見ることはできなかったのも覚えている。
 
ちなみに、祖母は戦前に見ている。
が、当時のこと、馬車が近づくと「最敬礼~」の号令で一斉に平伏(腰を屈めて視線を下にしただけだそうだけど)。
「馬車の車輪しかみえんかった」と言っていた。
 
この時お通りになった路は「御幸坂」という名前で現存している。
でも、わざわざ作ったらしく、昭和天皇は激怒したらしい。
無駄なことするなって。
 
この御幸の本が、のちに配られて我が家にあるのだが、ちゃんと昭和天皇が正装した写真が載っている。
祖母は、この本でやっと確認できたらしい。
 
専売公社に勤めていた、60年以上前の話である。
 
 
銀杏城、すなわち加藤清正が構築した熊本城の近くには、谷干城の他に、坂本竜馬の銅像もある。横井小楠、勝海舟、松平春嶽、細川護久の銅像とともに。
 
うちの曾祖父かその上の曾祖父かと坂本竜馬会ってないかなぁ。
貧乏士族だったから。
 
いつの時代にも青春群像はある。
平時でも戦時でも太平でも動乱でも。
 
そして、これは尽きることがない。 

94年と100年

 2005-01-26(水)
今日は祖母の誕生日である。
明治というから、ずいぶんと昔に生まれたひと、ではある。
 
94歳だ。
1911年に生まれているから。
あいにく元気でも矍鑠としているわけでもないが、一部、鋭利な眼光を失ってはいない。
書くと長くなる。
 
祖母が生まれる6年前。
1905年、すなわち、いまからちょうど100年前。
 
日本海海戦である。
ロシア帝国のバルチック艦隊と帝国海軍の連合艦隊が日本海で雌雄を決した大海戦。
 
世界三大海戦のひとつ。
 
連合艦隊司令長官は東郷平八郎。薩摩のひと。
作戦を立案した参謀は秋山真之。伊予松山のひと(四国)。
 
本日天気晴朗。ナレドモ波高シ 
 
という有名な電報を起草したのは秋山真之。
 
『坂の上の雲』という、この100年前のことを描いた長編小説があります。
たしか、今NHKがBS大河かなんかで撮影してるんじゃなかったっけ?
作者の司馬遼太郎が、遺言で映像化するな、と言っていた作品だったはず。
作品の素材が、まぁデリケートというか、使いようによっては、どちらにもとれるので、ある意味危険な作品であったと思われる。
ここ、意味わからない人は無視してくださいね。
 
この時代の人は上から下まで立派です。
誇り高い日本人です。
威張っていいです。
 
世界という舞台に駆け出しの小国日本が、その存亡を賭けて、命を賭けた時代です。
よくも、まあ、白人社会と喧嘩して勝てたもんだ。
有色人種が白人に勝った最初ですね。
 
色々見方はあって、いいことばかりではないのだけれど、それでも、こういう時期とこういう日本人がいたという事実は、誇りにしていいと思われる。
 
逆に言うと、ここから没落が始まるんだけど・・・軍事に関しては、ね。
アメリカも、ここから日本を仮想敵国として研究を始める。
オレンジ計画だっけかな。
 
今年は日本海海戦100周年ということで、色々イベントあります。
特集ページもあります。
 
 
ちゃんとしたページです。
壁紙ダウンロードできますよ、common。
 
水交会にもリンクあったので、見つけました。
水交会って、水交社の流れをくむ、東郷神社のある、あそこです。
旧海軍の親睦団体で、今は海自の親睦団体も兼ねている。
 
0号、2号は行ったでしょ、海軍カレーを食べに。
M部長が音頭とって。保全の守もニコニコしながら行きましたね。
その時の写真を見つけたので、あとでアップする予定です。
しかし、M部長、空の人なのに・・・w
 
日章旗(海軍旗=自衛隊旗)をバックに撮りまくりましたなぁ。
以上余談。
 
ばーさんが生まれた頃は、まだ日本海海戦を経験した人は生きていて、もちろん侍だった人も生きていたんだけど、なんか凄いな、と。
 
時の長さというか、流れというか。
繋がっているんだな、と。
そう思うわけです。
そういう空気も、身に付いているわけです。
 
昭和生まれのひよっこが、勝てるわけありません。
 
94年も生きている。
姪っ子中二は、あと80年あります。
 
明治の女は立派です。
 
私の鉄火好きの原点ですな。
 
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